個人山行 スイスで失った二つのもの
田尻 忍
3年前に途中で引き返したマッターホルン登攀に、再度挑戦すべくスイスを訪れた顛末記である。
今回は3家族プラス吉村君の7名で、行程にはハイキングもあったが、吉村君と2名での山に関する部分のみを報告する。
▼7月25日 マッターホルンに登るには、ガイド登山か又はガイドレス登山に別れるが、我々は当然ガイド登山を希望し、ツエルマットのアルパインセンターに向かう。
日本よりメールで仮のマッターホルン登山を申し込みしていたので、話はスムーズに行くが、肝心のマッターホルンは雪のためクローズとの事。
今年は例年になく冷夏で、これが夏のマッターホルンかと見紛う程の雪である。しかし山に登りに来たのだから、せめてテスト登山で予定したポルックス(4091m)に登ろうとガイドを申し込む。
ピッケルのレンタルをすべく街中のスポーツ具店(バイヤード駅前店)の地下に降り、好みのピッケルを選ぶ。
▼7月26日 指定された時間、朝6時40分に現地ガイドと会うべく、ロープウェイの発着場までホテルよりテクテク20分ほど歩く。
今日のマッターホルンは朝日が頂上を朱に染めていたが、その後は雲の中に隠れてしまった。
言葉(英語)にまったく自信の無い二人、どうにかロープウェイの切符を買っている最中にガイドが現れた様だ、慌てて切符を取り、ガイドの所に行き自己紹介する。長身で年は40台か?名前をトーマスと言いトムと呼んでくれと言う、目はサングラスで隠れ表情はよく分からない。
ガイドの出現に慌てたことで財布をカウンターに置き忘れた様だが、それに気がつかず、そのままロープウェイに乗り込んでしまう。
2回乗り換え、今はマッターホルン・グレイシャー・パラダイスと呼ばれる終点(3883m)に着く。
あ〜あ、ここで一つ目の忘れ物、財布を置き忘れる。
ステーションで身支度し、トーマス、田尻、吉村の順でアンザイレンし雪原へ乗り出す。時間は7時40分、天気は快晴に近くブライトホルン(4146m)や今日の目的であるポルックス(4091m)のピークと稜線が真白で青空に美しい。
ブライトホルン裾野の大雪原をポルックス目指して黙々と歩く。最初は雪原歩きも快調だったが、かなりのハイペースで、アイゼンを着ける為の小休止地点まで1時間半ほど歩き通す。少し体力に不安を感じる。
アイゼンを着ける折、焦って左右を逆に着け歩き出して、右のアイゼンが外れる。普段では有り得ないミスである。ますますあせると吉村君がトラブル、トラブルとガイドに注意を喚起し、アイゼンを着け直す。
ここからは雪と岩のコンビネーションであるが程度としては春の剣程か、もっと具体的に言うとカニのタテバイ、ヨコバイを思い出してもらいたい。しかし、ここからの登りで体力の不安が的中し、ゼイゼイ・ハーハーの連続である。
ヨーロッパの登山スタイルはスピードこそが安全でありきとは、さきのマッターホルンで経験したつもりでいたが、体力がついていかない。少しでも息を整えようと足を止めると、トーマスが早くしろとザイルを引っ張る。その引き方たるや、荷物を引き上げる様に引き揚げ、思いやりのかけらも無い。おかげで引かれる度に余計な体力を使い、益々疲れてしまう。
とうとう我慢できず自分はここに残ると喚くが、いかんせん言葉が通じない。ガイドはそ知らぬ顔、吉村君がもう少し登りましょうと言うので、仕方なく登りだす。
一箇所太いロープが下がった場所があり、先行パーティーが取りついているが、構うことなく被さる様に追い越して行く。降りのパーティーにも容赦ない。
黒い聖母像に着き岩場が終わる。ここにザックをデポし500m〜600m先の頂上まで緩い稜線を行き15分程で頂上に着く、時間は10時15分。
ポルックス頂上では、吉村君が日本より持参した日の丸とNACのネームが入ったシャツを広げ記念写真を撮る。機関車トーマスも機嫌良く一緒に写ったり、撮ってくれたり。あの荷物引き上げの仕打ちはなんだったのか、解らなくなる。
降りは降りで早く下れとばかりに背中を押す、何の真似だ。頂上から短い距離を普通に歩いても1〜2分も変わらないのに、解らん。
登って来た岩場を降り雪原に出てテクテク歩く。雪は壷を作る事無く、ユックリであるがどうにかロープウェイステーションに1時20分着く。
機関車トーマス(吉村君によるとシゴキのトーマスとの事)は機嫌が良い。不本意ながら用意していたチップ(20フラン)を渡すと益々ニコニコと機嫌が良い。所要時間は5時間50分。
ポルックス登山は無事終わったものの、日本の登山スタイルで挑んで、スイスのスピード登山に自信を失ってしまう。日本の四季の中で登山に親しんだ者としては、まるで異質の登山を再確認した。
▼7月30日 明日がツエルマットとも別れの日、ブライトホルンに登るぞと吉村君に声を掛けておいた。無論異論がある訳がなく、前日にはピッケルでなくストックをレンタルする。
朝の天気はガスがアルプより遥か下まで下がっていたが、天気の様子を見て良しと判断し、8時30分頃ホテルを出る。
ポルックス登山と同じロープウェイがマッターホルン・グレイシャー・パラダイスの終点まで一気に運んでくれる。終点のステーションを10時に出発する頃は快晴。今日は吉村君と2人、機関車トーマスはいないので自分達のペースで登る事が出来る。
ブライトホルンは饅頭型の山容で8月でも全山雪山であり、且つ標高差300m程しかなく手軽に登れる4000m級の山として人気が高い。初心者が多い為か5〜6人位がザイルを結んだパーティーも多い。
雪原から30分の登りでアイゼンを着ける。自分達のペースで登り1時間30分で頂上に着く。
ガイド登山では2時間位が普通らしい。吉村君曰く、シゴキのトーマスのお蔭で快調に登れたのだと、ウーンと唸る。
頂上での記念撮影をしていると、地元の登山者らしい若者が、我々の間に割り込みニコニコと写ってしまう。頂上からは後から登って来る川口夫妻が小さく見える。
下りはハーフトラバースへと続く痩尾根をノーザイルで行く。頂上で他の登山者からノーザイルかと念を押された、よく見るとノーザイルは我々だけの様だ。下りも登り同様快調で50分でステーションに着く。
帰りのロープウエイに、スキーをキャビンの外側に立てかけて、地元の若者が乗り込んで来る。クライミングかと手振りで聞いてくるので、ストックを見せブライトホルンと答えるとフーンと応じる。その後喋ることなくツエルマットに着く。
後から吉村君があの若者はNHKで放送されたグレートサミット「マッターホルン」で、女性プロデューサーをサポートした、あのシモン君ではないかと言う、本人なら記念写真を撮れば良かったなどと話している内にツエルマットに着く。(後からビデオを見返し、彼がシモン君と確かめたとの事)
ストックをスポーツ具店に返す時、返却の文言を、貧しい英語の単語の組み立てに思案していると、吉村君が店員に向かってストックを「レンタル・バック」と突き出した。店員は思わず「オー」と応じ即座に意味を理解する。まるで瞬間芸を見ている感じである。
無事ストックを返し、すっかり馴染んだコープで登頂祝いのビールを買い込む。
・・・英語迷人・・・同行した吉村君は、私同様英語はいまいちの筈だが、どういう訳か、単語で自分の意思を相手に伝える術を心得ているらしい。
ツエルマット滞在中一人でハイキングを楽しんだのが確かな証拠。どうすればこちらの気持ちを、少ない言葉で相手に伝えられるか、そのコツはどんなものだろう。思うにデカイ声と自信に満ちた態度で、相手の目をシロクロさせるのも手かも知れない。
スイスの山登りで、財布と登山に少し自信を失ったが、日本の山の楽しみまで失ったわけではないので、皆の足を引っ張らない様、これからも多いに楽しむつもりだ。