第1543例会 劔岳

三田 徹

3月に窪田君から無念のリタイアのメール。その後、鹿児島の伊達さんから参加の連絡があり、例年どおり5人で剱岳北方稜線を目指すことになる。
 事前の打ち合わせで、馬場島からのルート、室堂からのルートのいずれにするかメンバー協議の結果、昨年に引き続き室堂から真砂沢、小窓経由で北方稜線を攻める計画となった。
 週間天気予報では、5月1日が崩れるとの予報だったが、計画では5月1日は真砂沢〜小窓をひたすら歩く行程であり、少々天気が悪くても大丈夫と踏んでいた。
▼4月29日(金) 三田邸を4時55分発。途中、広島付近が混んでいるとの情報から山陽道を避け中国自動車道を走り、また、三連休の初日とあって混むと予想される名神高速を避けるために舞鶴若狭自動車道〜一般道〜北陸自動車道経由で立山駅に向かう。鹿児島から飛行機とJRを乗り継いで立山に先着していた伊達さんと18時30分に合流。伊達さんが偵察していたテン場にテントを張り、早速、鱒の寿司をさかなにビールで乾杯する。
▼4月30日(土)3時30分起床。立山駅の切符売り場に交代で並ぶ。発券は5時10分からで昨年に引き続き1番乗り。あと30分起床時間を遅くしてもいいかも。その間、テントに残ったメンバーは適宜朝食を摂る。立山駅での情報では室堂付近は高曇りだが視界は良好とのこと。6時始発のケーブルカーと高原バスを乗り継ぎ7時15分に室堂着。身支度を整え、室堂山岳警備派出所に寄って登山計画の確認を受ける。その際、前日、白馬大雪渓で雪崩事故が発生したこと、天気は昼から下り坂となることから注意して入山するよう指示を受ける。
7時45分室堂を出発、雷鳥平付近はそんなに風はなく視界はまだ良好。しかし、高度を上げるにつれ、風が強くなってくる。稜線に出た当たりからものすごい風となり、耐風姿勢を取りながら、止まっては一歩前進という具合でよろめきながら進む。別山乗越手前のトラバースを慎重に歩くが、田尻さんが強風に吹き飛ばされて、ルートと剱御前小屋のトイレ小屋の間の溝に落ちてひっくり返ってしまい、下さんが起こしに行く。トイレ小屋と剱御前小屋のほんの短い距離の間がますます猛烈な風で、しかも氷化しており、ピックを突いて四つん這いになっても身体をズリズリ動かされながら、ようやく御前小屋に辿りつく。しばし休憩して出発するが、次第に雲が低くなってきて、雷が光だす。劔沢のテン場には12時30分着。テン場にはテント3張り。山岳警備隊の人がトイレの掘り出し作業を行っていた。ここで、警備隊の人から情報を収集すると午後から天候が急速に悪化し、落雷の危険もあり、この先に進むのは危険で剱御前小屋へ引き返すよう指示を受ける。そう話しているうちに雷鳴と稲光がどんどん近づいてきて、暴風雨となってくる。ここで予定どおり真砂沢まで進むか、引き返すかの決断を迫られるが、この状況では前進は無理と判断する。避難先については、伊達さんのアドバイスもあり、剱御前小屋まで戻るよりは、剱沢のテン場からより近い剱山荘に逃げ込むこととする。テン場から剱山荘までのトラバースはこれまた暴風雨の中、耐風姿勢をとり、ズブ濡れになりながら歩くが、遅々として進まない。途中、今度は伊達さんが吹き飛ばされてひっくり返ってしまう。そんなこんなで、1時間かけてようやく剱山荘に転がり込むが、田尻さん、吉村さん、三田のザックカバーが吹き飛ばされてしまっていた。(三田のものは100メートルほど下まで吹き飛ばされていたが回収できた。)
剱山荘の人の話では、当日の予約は全てキャンセルで、我々だけとのこと。(午後からは室堂では入山規制が行われていたらしい。)ずぶ濡れの装備を乾燥室で干し、宿泊手続きを済ませる。
夕方になって、小屋の人から5人パーティが来るので乾燥室の荷物を整理して欲しいとの話がある。宇都宮からのパーティで、劔沢のテン場から平蔵谷経由で剱山頂を目指したが、天候悪化のためカニのタテバイ付近で撤退し往路を引き返したが、剱沢のテントに戻っても避難できる状況ではないと判断し、テントには寄らず直接剱山荘に来たとのことだった。メンバーの話では、源次郎尾根に取り付いていた別のパーティがあり、その動きが遅く心配とのこと。
 腹も減ったので、16時30分からビールと焼酎を飲みながらおつまみと夕飯を終え、何もすることがないので、ラジオを聞いたり、漫画「岳」を読んだりして時を過ごす。
 そうこうするうちに、源次郎尾根のパーティが救助を求めに山荘へやって来た。2人組の2パーティが4人で行動していて、そのうちの一人が疲労のため剱沢手前で動けなくなったとのこと。1人を現場に残してきた同行の男性は茫然自失の様子で山荘玄関の椅子に座っていた。救助の連絡は、山荘経由で剱御前小屋の山岳警備隊に入り、暴風雨の中、警備隊の人は現地へ向ったようだ。翌日の天気を確認するが、小屋の人の話では、引き続き悪天とのことだった。
▼5月1日(日) 相変わらずの暴風雨。ラジオでは富山空港での瞬間最大風速が23メートル超と台風並みであることを伝えている。

源次郎尾根組の話では、結局、昨日動けなくなった人は疲労凍死したとのこと。ラジオのニュースでもその旨伝えており、剱沢をルートとしている我々のことを心配しているかもと、小屋の衛星電話を借りて長崎の留守家族に無事の旨を連絡する。
 することもなく、寝たり、本を読んだりして過ごす。小屋の窓からは、悪天の中、遭難者の遺体引き上げを行っている警備隊の人の動きが見える。小屋の人から、今日はどうしますかと聞かれ、天気の回復が見込めないので山荘にお世話になることにする。予報では1日は終日暴風雨、夜から暴風雪、翌日は回復するとのこと。翌日の行動をメンバーで協議するが、2日の午前11時までに天気が回復すれば、前剱まで偵察(小屋の人の話では別山尾根を使った剱登頂は前剱経由の登降が危険)しようということになる。
▼5月2日(月) 3時起床。つい先ほどまで吹いていた風も部屋の中にいれば、ピタッと止んだように思えたが、玄関を開けると相変わらずの強風。部屋に戻って寝る。5時、外が明るくなってきても視界がなく今日もダメかなと諦めかける。7時、急速に雲が取れてきて視界が開けてくる。寝ている下さんを起こし、協議の結果、平蔵谷経由で剱山頂を目指すことになる。

7時55分に山荘を出発。アイゼンを効かせどんどん下る。
暫く進み、平蔵谷と剱沢との出合いはここかな、いや、もっと先だろうと意見が出たが、GPSで緯度経度を確認し位置を特定する。平蔵谷はものすごいデブリで、おそらく昨日の雨で雪崩れたものと思われる。これに巻き込まれれば一たまりもない。雪崩に合わないようルートを選びながら登る。上部に行くにつれ、昨日から降った雪のせいでラッセルも膝あたりになってくる。平蔵のコルから約100メートル下には雪崩の破断面がくっきり残っており、破断面を避けて雪渓中央部のルートを慎重に登る。コルには11時45分着。平蔵の頭の小屋にはエビの尻尾がびっしり張り付いており、まるで真冬の様相を呈している。ここからは岩と氷のミックス、ピッケルを打ちこみながらカニのタテバイを慎重に登る。
 剱山頂には13時05分着。他のルートからの先着が2パーティ、うち1パーティは小窓尾根から登って来た若い男女3人組だった。記念写真を撮ってもらい、時間も時間なので早々に山頂を後にする。

下りは慎重を期して梯子まで2ピッチザイルを出す。平蔵のコルからはシリセードを使いながらあっという間に剱沢との出合いまで下り、雪崩にもあわずほっとする。ここからはひたすら登り返し、17時30分に山荘着。当初は山荘に戻り、剱沢でテントを張る予定だったが、時間的に遅くなると判断し、この日も山荘にお世話になることとする。頑張ったご褒美に夕食時には田尻さん、伊達さんからビールを御馳走になる。
▼5月3日(火)4時起床、5時35分発。風もなく、昨日までの天気が嘘のような穏やかな天気。順調に着いた剱御前小屋前では剱岳をバックに同志社大学山岳部員と記念撮影。
 雷鳥沢へはシリセードを交えながらどんどん下る。シリセードのし過ぎで、お尻の部分を補修していたゴアカッパにまたまた穴が開いてしまう。

 室堂には10時着。山岳警備派出所への下山報告、それぞれ留守家族に無事下山の旨連絡、そしていつもの宿である大岩荘に本日宿泊する旨連絡を入れ、観光客で賑わう室堂を後にする。バス、ケーブルカーを乗り継ぎ、いそぎ車で上市を目指し、いつものごとくアルプスの湯で汗を流した後、「パル」で食材、アルコールを仕入れ、15時過ぎには大岩荘で宴会開始、20時過ぎまで飲んで爆睡する。
▼5月4日(水)4時起床、6時前に大岩荘のおかみさんとご主人に別れを告げ、途中、孫の顔を見るために京都へ寄る伊達さんを富山駅で降ろし、一路、長崎を目指す。往路で利用した北陸道〜一般道〜舞鶴若狭道を帰ってみてもよかったが、往きに敦賀→小浜間がひどい渋滞だったことと、時間も早かったので帰りは北陸道〜名神〜山陽道経由としたが、米原JC手前といつもの宝塚IC手前で渋滞に引っかかり、16時間かけて、22時に長崎に到着、無事山行を終える。
▼帰ってからインターネットでGW前半の山岳事故を調べたら、剱沢で遭遇した遭難をはじめ、後立山、槍ヶ岳周辺、八ヶ岳等々で雪崩、滑落、落雷などによる事故が多発しており、この期間中は広い範囲で厳しい登山を強いられていたようだ。そういう意味で、小屋代は高くついたが、北方稜線にこだわって剱沢から無理して前進せずに、小屋泊とした判断は正解であり、小屋で停滞して体力を温存したことにより、剱登頂という結果を残すことができたと思う。

コースタイム
4/29(金) 4:55三田邸発 18:30立山駅着
4/30(土) 3:30起床 6:00ケーブルカー乗車 6:25高原バス乗車 7:15室堂着 7:45室堂発 11:20剱御前小屋 12:30剱沢テン場 13:30剱山荘着
5/ 1(日) 停滞
5/ 2(月) 7:55剱山荘発 8:35平蔵谷出合 11:45平蔵のコル 13:05剱岳山頂 14:15平蔵のコル 15:20平蔵谷出合 17:30剱山荘着
5/ 3(火) 5:35剱山荘発 7:15剱御前小屋 10:00室堂着
参加者:会員5名

充足と未練の剣岳

田尻 忍

この春、剣岳に登頂できた。2006年の夏より始まった剣岳 北方稜線は2007年の大窓2009年の小窓2010年の剣沢とそれぞれ悪天候、アクシデント等の事情に翻弄され、今年こそと意気込み、昨年と同じルートを辿る。
剣沢のテント場につく頃天候は一層悪くなり、雷も鳴り出し稲妻も少しずつ近づく、山岳警備隊に危険だからここから避難して欲しいと勧告される、駄目押しで雨も降り出し止む無く剣山荘に入る。
2晩暴風雨に見舞われテント場に帰る事が出来ない、やっと5月2日風雨も止み視界が開けだす、時間が8時前で悩ましいタイミングだがせめて剣本峰だけでも、との思いで剣沢を下り平蔵谷の出会いより平蔵谷を詰め本峰へと目指す。
計画では北方稜線を未踏のルートである小窓から小窓ノ王さらに三ノ窓を経由して剣本峰を目指すも天気は昨年より悪く計画ルートは放棄する。平蔵のコルに着いたものの体力の低下は覆う術も無く、シャリバテと相まってヨレヨレの状態、コルではここで待っていると弱気の虫が囁きだす。頂上はもう少しですよと、メンバーに励まされハシゴ・カニのタテバイを踏ん張り頂上に立つことが出来た。
私にとっては初めて立つ雪山の剣山頂である。06年、冬の槍ヶ岳以来雪山のピークに恵まれずフラストレーションが溜まっていたが、やっと寒風に揉まれながら雪のピークに立つことが出来、充足した時間でもあった。しかしもう一方では小窓から剣本峰のルートが未完として残り、ブナクラ乗越より剣岳への北方稜線が完成していない。体力・気力の充実と天候に恵まれれば決してやれないルートでないが山はそれを許さず5年を経過してしまった。
今年、66歳を迎へるポンコツ山屋は剣山頂を踏んだのだからよしとする声と、世の中は広い70を過ぎても踏破した人も居るではないかと一方の声は励ます。さて来年はどちらの声が勝ることやら。

2011年5月 剣岳北方稜線に思う

吉村 克伸

週間予報では5月1日(日)だけが晴れから雨になっていた。また“晴れ男の伊達さん”が参加してくれたので、今年は絶対に行けると思って挑んだ北方稜線だったが、またしてもだめでした。残念。しかし、平蔵谷から剣岳(2,998m)の頂上に登ったので、“よし”としよう。
来年からは休暇を2日以上とらないと連休にならない。
「山はにげない。」とよく言う。たしかに山はにげないが、体力、気力はにげていく。そして山もにげていく。来年どうなるかわからないが、少しにげかけた北方稜線である。